テッド・フルモトさんの本を読むと、バンクーバーを訪ねて取材した日を
思い出しました。いかに、日系移民が弾圧と迫害をくぐり抜けて、生き抜いて
いたか、を。
野球こそ、人種差別を乗り越え、ルール通りに試合ができる、
唯一の交流手段だったのです。
バンクーバーは、バラード湾を挟んで南北に分かれていますが、その南岸
を東西に走る約3キロの道「パウエル・ストリート」に、戦前、約1万人の日本人
が暮らす日本人街がありました。当時は「リトル・トウキョー」とも呼ばれ、活気
があったのは、今から90年余の昔です。現在は、全くその面影はありません。
このストリートの一画にあったのが「パウエル球場」でした。
今は「オッペンハイマー公園」になり、野球場だった名残もなくなっている、
と言われています。
ここで、早朝5時から少年たちを集めて早朝練習が日課になって、いた、のでした。
日系二世の子供たちを集めて野球をやり、日系人の希望を掲げよう、
と、市内の運動神経に恵まれた少年を集めて結成されたのが、
朝日だったのです。1914年に公募してテストに合格した少年のメンバー
は9人。この少年たちを鍛えたのは宮崎末次郎監督。ハワイ移民から
バンクーバーへ移住。衣料品、食料品店を経営。猛烈な働き屋だった、
そうです。その精力的な行動から”馬車マツ”とも呼ばれていました。
初期の1908年には、移民一世20人が集まり「ニッポン・ベースボール・クラブ」
を組織。ニッポンは少年たちのあこがれだった、ようです。
ニッポンは、日本で野球をしていた経験者が多く、チーム作りは成功しました。
この朝日初期メンバーの1人が「テデイ・フルモト」だったのです。
了
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