ホノルル国際空港のコンコースには、右側(日航への搭乗口)に25番ゲート前壁に
与那嶺要外野手、監督(巨人、中日)の個人殿堂があります。
お気づきの方もおられるかもしれませんが、ここに置いてある、2つのガラスケース展示
は、与那嶺さん個人の愛用グッズを寄付されたもので「だれにも目に付くように、気軽に
覗いてもらえばいい」と、設置されました。
2004年1月13日、ここで盛大に披露式典が行われました。
与那嶺さんは、1925年6月24日、マウイ島オロワルの生まれ。フットボールで
活躍し、ファーリントン高校時代にMVPに輝き、オハイオ州立大学から奨学金付きで
進学を勧誘されたほどのスポーツマン。軍隊(陸軍)招集で進学を断念、ハワイ軍隊チーム
に入り、フットボールのスターだったとき、NFLフィラデルフィア・イーグルスから
スカウトされたのですが、除隊できず断念。
1947年、兵役から戻ったときに、サンフランシスコ49ERSから2年契約の
オファーが舞い込みました。年俸総額7000㌦だったそうです。無名の新人
には破格の好条件でした。快速のランニング・バックで、1年目は49キャリー、
40ヤードの成績を残しました。
しかし、そのオフ、ハワイで野球をやって左肩を痛め、あえなく契約解除。
悲運の与那嶺を認めたのは、親日家のフランク・オドウル監督でした。
「NFLが駄目でも野球の才能を生かせ」と、呼び寄せ、マイナーの
ソートレイク・シテイでプレーさせたとき、巨人から、「いい選手が欲しい」と
オドウル監督に依頼がありました。
「お前、日本へ行け。日本の野球を変えろ。ファンをとりこにしろ」と、オドウル監督は
すぐに命じたのです。
1951年6月、来日した与那嶺は、代打で絶妙のバント・ヒットを成功させ
(6月19日、後楽園球場の国鉄戦)ファンを驚かせました。
今年83歳の高齢ですが、与那嶺さんはお元気で、ハワイで余生を
楽しんでいます。
了
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