ハッチンソン監督の信条は「常にハードに働く者は報いられる。手を抜けば、いい結果は
得られない。楽をしていては勝てない」でした。このハッチンソンの言葉を生かす選考は
選ばれた選手の顔ぶれを見れば分かります。
選考は、監督の遺志を受けて、3人の著名なスポーツ・メディア関係者が当たり、
ハッチンソンの努力、忍耐、不屈の闘志、精神を受け継いだ者を選ぶ選考方針は、一貫して
続いています。初代の受賞者(1965年)は、足の故障にも負けず、頑張り抜いた、
ヤンキースの看板打者、ミッキー・マントル外野手でした。
ハッチンソン監督は、レッズ監督の2年目、1961年に初優勝。ヤンキースとのワールド・
シリーズに挑みましたが、1勝しただけで敗退。この年は「MM砲」の言葉が生まれた年。
マントルとコンビだった、ロジャー・マリス外野手が、ベーブ・ルースの不滅、と言われた
年間60本塁打記録を書き換え、61本の新記録を作った年でした。
このシリーズでは、マントルは足が思わしくなく、2試合プレーしただけ。マリスも本塁打1本
でしたが、ハッチンソンの夢を砕いたコンビだった、のは間違いありません。そのマントルを
選んだのも、何かの縁でしょうか。
1966年は、左腕の血行障害を克服して投げた、火の玉、と恐れられた、ドジャースの、
サンデイ・コウファックス投手。さらに、3冠王、カール・ヤストレムスキー外野手
(レッドソックス)、最多安打王、ピート・ローズ内野手(レッズ)が続きます。
了
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