バンクーバー朝日がプレーした(選手は”遊ぶ”と表現していたそうです)
パウエル球場は、パウエル・ストリートの真ん中、ジャクソン・ストリート
と、ダンレヴィ・ストリートの間にありました。現在は、「オッペンハイマー公園」と
名前を変え、残っていますが、芝生はなく、荒れ地で石ころがあり、とても、
かっての盛況は想像できない環境だそうです。
テッドさんは、この本の執筆に当たり、バンクーバー市を訪ね、この球場跡地
に立ちましたが、「ここで、父が力投し、多くの朝日ナインが白球を追っていたのか」
と脳裏に浮かんだとき、思わず、胸が熱くなった、」と、書いています。
港湾都市バンクーバーは、バラード湾を挟んで南北2つに分かれていますが、
その南地区バラード湾岸地区の東西3キロの通りが、パウエル・ストリートでした。
バンクーバー朝日の少年ナインは、初夏の早朝5時から、このパウエル球場
で練習し、学校へ通う毎日でした。
戦争による強制収容で、この日本人街も破壊され、戦後も、バンクーバーに
戻ることはできませんでした。
ようやく3世たちの努力で日系人の復権が認められ、バンクーバー朝日は
カナダ野球殿堂入りし、バンクーバーのBCスポーツ・アリナにも掲額され、
後世に伝えられることになりました。
その長い苦闘の歴史を書いた、テッド氏の著作は、バンクーバーの日系博物館
にも展示され、テッド氏は「英訳して広くカナダの人々にも知って欲しい」
と、交渉を続けています。
テッド氏は、本の最後「おわりに」のコーナーに「トロントでOBの方々にお会い
して、”われわれはカナダにいるけれども、日本のことは忘れたことがない。
日本では、われわれ朝日軍のことは知っているんだろうネ”と、言われ、いや、
ほとんど知られていないのです、と答えたとき、みなさん、落胆を隠さなかった。
朝日軍の存在と活躍を日本、いや、世界に広めます、と、大見得を切った
のが、創作のきっかけになった、と、書いています。
英訳の交渉も、その一端なのです。
みなさん、書店で「バンクーバー朝日」を見かけたら、ぜひ、読んで下さい。
感動が自然に起こる、と思います。
了
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