「僕は農村に生まれた、子供の頃から、父と一緒に農業をやっていた苦労が良かった、と思
う。都会の安楽な生活だったら、こんなに長くプロ投手、として投げられなかった、だろう。
子供のころは、何で、こんなに辛い作業を毎日やらないといけないのか、と思ったこともあっ
たが、この農作業が、自然に僕の頑健な体を作った。今は、父に十分感謝しています」と、
引退後、フェラー投手は語っています。子供がトラクターや耕耘機を動かすのは大変でした。
父・ウィリアムさんは、長男・ボブに仕事を手伝わせながら、少年の野球の素質を見抜き、
畑を改良して、簡易野球場を作り、電灯を付けて(いわばナイター設備)ボブの野球を生かす
土台を作りました。
ここで、9歳のとき「父と休みの時間にキャッチボールしていたとき、偶然、手首をひね
ったら、ボールが鋭く曲がるのを発見した。僕はカーブが投げられる、と、分かったとき、
ヨシ、投手になろう、なれる、と目標を決めた」と、ボブは語っています。
バンミーター高校では、すぐに頭角を現し、うわさを聞いた、インディアンスのスカウトが
やってきました。ところが、サイ・スラプニッチ・スカウトが提示したのは、何と、契約金がわず
か1㌦。おまけは、インディンス選手のサインボールだけ。今ではとんでもない話しだ、と、
物別れ、になるところですが、それでも、インディアンス入りが望みだった父も、ボブ少年も
すぐにOKしました。
1935年7月22日、デモイン市ワーデン・ホテル(今はありません)で、赤いほっぺたをした
ボブ少年が、緊張して座り、契約書にサインしている貴重な写真は、この博物館に飾られて
います。
了
コメント