メジャーの取材で、旅行していると、現地の記者に、
接触します。アメリカ人の記者は、こちらから、
教えを乞えば、ほとんどの人は、丁寧に話して
くれます。
ラリー・ホワイトサイド記者も、その1人でした。
昔は、渡米して、取材する日本人記者は珍しく、
私は、何回も、逆に取材を受けたこともあります。
ホワイトサイドは、ボストンの一流紙「ボストン・
グローブ」のリポーターで、数少ない黒人記者の
パイオニアでした。
当時は、メディアは白人ばかり。彼が、初めて
その中に入ったのは、勇気がいることだった、
と、思います。しかし、目に見えない迫害にも
負けず、彼は、いつも、信念を持って行動して
いました。
ホワイトサイドは、6月16日、長い病に勝てず、
69歳の生涯を閉じました。気さくで、私にも、
親切な男でした。日本野球にも興味を持ち、日米
野球で同行、来日して、日本中を駆け回り、
日本リポートを書いたこともあります。
黒人記者登場の道を開き、ミルウォーキー時代は
当時の、ブリュワーズ・オーナー、バド・セリグ
(現コミッショナー)に、フロント入りを勧められた
こともありましたが、「私は、黒人たちのパイオニア
で書く」と、断り、生涯、リポーターで、野球の記事
を書き続けました。「彼こそ、アフリカン・アメリカンの
チャンピオン」と、セリグも、その死を惜しんでいます。
アメリカには、生涯、現役で貫き、80歳を過ぎても、
元気で働いている記者は、少なくありません。
天国のホワイトサイドに負けないように、私も頑張り
たい、と、念じています。合掌。
了
コメント