クーパースタウン殿堂入り記念式典で、私が、注目したのは、ベテランズ委員会の選考で
選ばれた、故・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリー氏でした。ロサンゼルス
移転50周年の今年、ニューヨークから初めて西海岸地区へ進出した当時のオマリー
氏の苦労は、この日、壇上に上がった子息のピーター・オマリー氏が感謝のスピーチ
でこう述べています。
「父は何とか、ブルックリンにドジャースを残したい、と努力していた。新球場が
できるなら何でもする、という決意だった。だが、10年間も新設の努力をしたが、
ついにブルックリンでは無理、と分かったので断念した。見捨てたのではりません」
この日はオマリー・ファミリーは全員集合。孫も12人集まり、「ロサンゼルスに栄光
あれ」と、みんなで祝福しました。今は、オマリー家はドジャースを手放し、見守る
毎日ですが、7月31日、レッドソックスから強打者、マニー・ラミレス外野手
が加入。ワールド・シリーズへ向けての補強も完成。1988年から王座を離れている
ドジャースを、オマリー氏は殿堂から応援することでしょう。
もう1人は、黒人記者への門戸を開くパイオニアになった、故・ラリー・ホワイトサイド
記者の表彰です。優れた野球記者に贈られる、今年度の「テイラー・スピンク賞」
を受賞しました。
表彰額は未亡人のエレーヌさんが受け取り、感謝の言葉は、長男のトニーさん
でした。お父さんそっくりのトニーさんは「父は努力で道を開く、希望と、勇気を
与える存在だった。彼は人々の信頼を集め、後に続く人に尊敬された。私は
父の勇気、信念を学びたい」と、胸を張ってあいさつしました。
私は、ラリーが元気だったころ、オールスター、プレーオフ、日米野球で
ご一緒したことがあります。いつも研究熱心で、私にも優しく教えてくれました。
当時、全米野球記者協会はまだ開放的ではなく、黒人ライターは加盟も
できない状態でした。
ラリーは10年余も掛けて正会員に認められ、一握りの数しかいなかった、黒人
記者も100人を超しました。いわば、ジャッキー・ロビンソンが黒人の壁
を破る最初の選手になった、のと同じように、黒人記者のカラーラインを
取り除いた人なのです。
ラリーは2007年6月15日、病に冒され、70歳の生涯を閉じました。
ついに朗報を聞けないままこの世を去りました。
黒人記者でスピンク賞を受賞したのは、ウェンデル・スミス(1993年)
サム・レイシー(1997年)に続いて3人目。クーパースタウンの図書館へ行く
道の壁に、歴代の受賞者の額が掲げられています。
了
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