カッブ博物館は、広大なヘルス・ケア・センター内部の
本部「ジョー・A・アダムス・プロ・ビル」(淡い白とブルー・グレイ
の壁に塗られたビル)を入れば、すぐに分かります。窓口でチケット
を買えば、カギでドアを開けてくれます。
左手にバット・ショーケース、その奥に「100グレート・モーメント」
というタイトルの、カッブの偉大なプレー写真展示、さらに奧には、
カッブが野球の基本、練習、取り組む姿勢を説く、肉声を聞くことができる、
貴重なコーナーがあります。ボタンを押すと、すぐに、声が流れ、カッブが、
いかに科学的に野球を研究し、常に、頭を使って、臨んでいたかが、良く
分かります。
「デッド・ボール」と言われた、ボールの飛ばない時代に、
脅威の記録を残したカッブは、綿密に計算してプレーして
いたか、なるほど、と感嘆するほどです。
ノックバットのように細いバット、小さなグラブ。愛用していた
用具も、すべて自分に合うものに作ったのでした。
フィールドで偉大な業績を残したカッブも、私生活は
恵まれず、不幸な一生でした。
父は母に射殺されるアクシデント、彼自身も2回も離婚、子供たちも
大成せず、晩年はタバコの吸いすぎと、酒で体を病み、
ガンに犯され、カリフォルニアから、故郷のジョージアに戻った、
1961年7月17日、74歳で亡くなりました。
父・ウィリアムは、カッブの少年時代、「お前は大きくなったら、
弁護士か医者になれ」と、言いましたが、カッブは拒否。野球への
道を選び、地域野球、セミプロからタイガースと契約した
とき「負け犬になって戻るな。勝利しなければ我が家は
ない、と思え」と、父は厳命。退路を断たれたたカッブは
「よし、必ず王者になる」と、誓った、とも言われています。
タイガース入りした年、1905年8月8日、母が猟銃で父を
射殺するショックな事件が起きました。まだ、デビュー前、カッブは呆然としました。
銃を手渡そうとした矢先の偶発的事故、とされていますが、
真相はナゾのまま。両親は不仲で、この博物館にも、2人が並んだ
写真はなく、別々に飾ってあります。「父にプレーを見て
もらえなかった。父は天国で見守ってくれるはず。ヤルゾ」
と、さらに決意を固めた、と自伝にあります。
了
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